ごろごろごろうの なまけものブログ

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日大アメフト選手の会見で考えること ー なまけものブログ

こんにちわ。

ごろごろごろうです。

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<写真はイメージです>

 

いやー、昨日の日大アメフト選手の謝罪会見、我々オトナには、本当に、いろいろと考えさせられましたねぇ。そして、本当に、ぐさっと刺さった。いろんな意味で。

第一に、あらゆる意味で、謝罪たるもの、こうあるべきだ、って世のオトナたちにつたえたこと。彼は、どんな記者の質問に対しても、一貫して、「指示があったとは言え、反則行為を行ったのは私であり、私が反省すべき」と言い続けました。すごいです。記者(オトナ)たちは、彼から、「私を追い詰めた監督、コーチが悪い」と言う言葉でも引き出したかったのでしょうか。よくわかりませんが、あらゆる角度から、同じような質問が何回も飛び交う中、彼は怯まず、そして、この期に及んでも監督やコーチを慮りながら、一貫して自分の非を認めています。

図らずも、監督自身が「これは私の責任です。弁解はしません」と言いながら、指示はあったかどうかの質問に、逆の意味で一貫して「文書で回答しますから」と弁解していたのとは真逆です。

これで、彼は見事に世論を味方に付けました。まさに、これこそが、危機管理の原点ではないでしょうか。彼はアメフトを辞めたら、今すぐ、危機管理学部の講師なり、教授なりになり、いろいろな人達に、「誠実である」「正直である」ということがどういうことなのか、教えるべきでしょう。

第二に、言葉、というものの難しさです。言葉、というのは、自分の心の内を相手に示す、人間が生み出したコミュニケーションの最強の道具です。しかし、だからといって、テレパシー能力が全ての人間に備わっているわけでもないので、心の内は言葉でしかわかりません。でも、言葉、というのは実はいろいろな解釈ができます。確かに、日大の選手の会見の言葉通り、コーチから「関学のQBがいなくなったら、得やろ?」みたいに言われたら、これは反則を促している以外、考えられません。しかし、一方で、「相手を潰せ!」って言う言葉だけでは反則を促しているとは言えません。その場の空気感や、監督・コーチの顔つき、これまでの経緯など、あらゆるものを総合して、この言葉を自分なりに解釈します。そこに解釈の違い、が出ることも容易に想像できます。そして、それを巧みに利用しているのが大学側です。

言葉の解釈を巡っては、古今東西、老若男女、みーんな苦しんでいます。

極端に言えば、それで戦争になってしまうくらい、恐ろしいものです。

いかようにでも解釈できる、あいまいな言葉、っていうのは、誤解を生みます。

しかしながら、某国の総理大臣が断言口調で事実の確認のないまま、「私が知ったのは◯年◯月◯日が最初だ」「私もしくは私の妻が関係していれば、総理大臣も国会議員も辞める」と断言口調で言うと、その部下たちがざわざわして、辻褄合わせに翻弄され、ついには嘘までついてしまうという、恐ろしい自体が生まれます。

いずれにせよ、今回の選手の会見は自分の気持ちも事実もすべて、時間的に整理しながら正直に述べたことによって、彼への誤解はまず、ないことがわかります。

 

信用、って恐らく、こういうところから生まれるものなのでしょう。

僕も見習わないといけないと思います。