こんにちわ。
ごろごろごろうです。
本日、第3段です。
久々に夢について考える、って記事の続きを語ろうと思います。
ってか、本当は夢について語ろうと思っていたのですが、いつの間にか人生について語ってますねぇ。
そういうわけで、ここは少し時間を巻き戻して、僕の人生を語る上で、幼少期に経験した重要なことを語りたいと思います。
なので、大学生活とその後についてはちょっと待ってね。
僕は小学校2年の6月に父の転勤で、オーストラリアに住むことになりました。帰国は中1の12月なので、5年半、住んでいたことになります。
場所は南東部のメルボルンから約100km南西にある、当時人口12万位のジーロング(Geelong、現地発音はジローンに近い)という工業都市です。人口12万というと、日本では小さな市レベルですが、当時オーストラリア全体の人口が1200万で、しかもその1/3がメルボルンとシドニーという二大都市に集中してましたから、ジーロングという都市は当時ビクトリア州では2番め、オーストラリアでも僕の記憶が正しければ10番目ぐらいだったかと思います。
とは言え、まだまだ白豪主義を敷いていた時代ですから、日本人はおろかアジア人も少なく、この都市の日本人は12,3人位で、しかもそのうち4人が僕らの家族、5人が家族を含む父の会社の駐在員でしたから、日本人学校なんてあるはずもありません。ま、要はいきなり現地校に放り出されました。
ただ、子供の適応力ってすごいですよねぇ。半年間はものすごく苦しんだ記憶があります。だって何言ってるのかわかんないんだもん。そもそも、当時の僕は人間ってのは、すべからく、日本語で考えると思っていたので、「りんご」を見たら世界中の人間が頭のなかで「りんご」って考えると思っていたので、まさか、世の中にいきなりそれを"apple"って考える人が存在するなんて思いもしませんでした。何が言いたいかというと、最初の半年間は、彼らがなぜ日本語で考えているのに、なんでここの国の人達はわざわざめんどくさい英語に言い直すのか、さっぱりわかりませんでした。
しかし、半年後、ある日の朝礼で友達に何かを話しかけられ、それを英語で返した時に、「あ、こうやってみんな英語で考えるんだ!」という、ショッキングな体験をしてから、面白いように英語が喋れるようになり、1年後には英語で夢を見るようになってました。
学校生活は今思うとかなり順調でした。今は知りませんが、当時の向こうの小学校には時間割というものはほとんどなく、だいたいの順番は決まっていましたが、先生が「じゃ、いまから算数」「よし、午後からは英語表現」「これからはスペリング」「これからは自由研究」みたいに、先生の裁量でテキトーにやってました。(中学に上がると時間割というものが出現しますが)しかも、社会、理科、図画工作などはほとんどなくほとんどの時間が英語に当てられてました。上記の英語表現(English Expression)というのは、日本で言う作文の時間で、先生のその時の気分でフィクションだったり、ノンフィクションだったりの大まかな方向性を決め、それに沿って子どもたちが自由に作文し、その後優秀作品はみんなの前で読み上げられます。自慢ですが、僕は何回も読み上げられてます。エッヘン!!
これ以上行くと、教育論に発展するので、学校の話はこの辺にします。
ただ、言いたいのは、すごく自由に、のびのびとした教育のもとで育てられた、ってことは確かで、今になって思うと、その後の性格形成に大きな影響を及ぼしたような気がします。
ってなわけで、自由でのびのび育てられた僕は、今日も自由にのびのびと会社でブログ書いてます。
いいのか?それで。
それでいいのだ。